ま、それでいいんじゃないの

他人から相談を受けたとします。相談を受けても、得てして相手は既に心の中で決めてしまっていることが結構あります。こうした場合、一番いい相談の受け方は、共感しながら、相手の言いたいことが出尽くすまで聴いてあげて、もし相手がこうしたいという意見を持っているのであれば、

「ま、それでいいんじゃないの。頑張ってくださいね」

と言うことです。

もし相手の意見に賛同できなくても、相手の意見に頭から反対しない範囲で、注意点や付帯事項の情報を提供してあげれば相手は熱心に聴くことでしょう。その結果、相手は意見を修正したり、場合によっては全く取り下げることも考えられます。

端的に言うと以上の相談の型が『「先生」に相応しいコミュニケーション術』と言えます。「この人なら相談してみたい」というような相談の達人は例外なくこの原則を身に着けていると考えられます。というのはこの型こそがカウンセリングの基本を抑えたものであるからです。

この型では相手の自己肯定感を強めこそすれ、決して傷つけていません。世間には相手の自己肯定感を傷つける人が結構多い。ですからこのポイントを押さえていれば、とりあえず光るわけです。コミュニケーションは主観的である反面、絶対外してはいけない客観的な要素もあります。それは相手の自己肯定感を高めるということです。

しかし、単にへつらってもダメなのは自明です。そこに人間に対する洞察力が要るわけです。この洞察力は苦労してきた人、いろいろな人生経験を積んできた人がそれなりに身につけているものです。しかし、言葉で説明できず、身体で覚えるしかないといったことではありません。言葉で十分表現できる内容だと私は考えます。言葉で整理できるのであれば、だれでも身につけられますし、努力する方向もわかるわけです。

# by bfath602 | 2009-11-19 07:16

「この人なら相談してみたい」という人

人生楽しいことばかりではありません。辛いことしんどいことも多いものです。そうしたなかで友だちづきあいをするのなら、あなたならどんな人がいいですか。
人生何事にも前向きな人ですか。それともふた言目にはあなたをほめてくれるような人がいいですか。

たとえば、人生何事にも前向きな人。これは結構ですが、何事にもアグレッシブな野心家はテンションが高く、ちょっと疲れる感じがして、個人的にはごめんこうむりたいです。こういう人は得てして同様にアグレッシブでない他人を批判する傾向にあり、もしそうならお付き合いなどは願い下げです。

たとえば、ふた言目には自分をほめてくれるような人。もちろん何かにつけてあなたをけなす人よりはよほどいいですが、坊ちゃんの清(キヨ)みたいに何かにつけてほめられても、かえって居心地が悪いものです。あんまりの付和雷同もどうかと思います。こうしてつらつら考えていくと、私の場合は、

①何かにつけて自分に共感を示してくれる人。意見が少々違っても構わない。
②新しい情報、考え方、視点を提供してくれ、なるほどな、と気付きを与えてくれる人。

の二点です。①②両方が備わっていれば理想的です。そのうちの①と②ではやはり①が重要です。たとえ気付きを与えてくれる人でも、何かにつけて自分を批判する人であれば、友だちづきあいしたいとは夢思いません。

以上私のケースを述べましたが、あなたもきっと同意してくださるだろうと思うのです。というのは人間、性格は違っても、普遍的な共通性というものは持っているからです。おそらくどの人にとっても、「この人なら相談してみたい」という人はきっとこんな人であることでしょう。

「この人なら相談してみたい」と人柄を感じさせるコミュニケーションこそ、社会人としての理想のコミュニケーションであると言えます。なぜかというとこのコミュニケーションは「助言の真髄」を押さえているからです。言い換えるとカウンセリングとコンサルティングを結果的にバランスよくカバーしている、ということになります。他人から信頼される人脈の豊富な人、というのは例外なくこのコミュニケーションができています。あまり功利的な考え方はしたくありませんが、こうしたコミュニケーション術は研究するに値するわけです。

では、助言の真髄とは何でしょうか。そのためには助言とはいかなるものか、を理解する必要があります。

# by bfath602 | 2009-11-18 06:39

大前ライブの読者プレゼントに登場しました

拙著が大前ライブの読者プレゼントに登場しました。
事務局から言ってこられて、出版社が無償提供してくれることになりました。

http://coach.client.jp/material/bbt757.mht
http://coach.client.jp/material/present.mht

視聴者プレゼント 「心を鬼にして叱るより 無理にでもほめなさい」
がそれです。

それがどうしたという感じもしますが、webページが消えてしまないうちに保存しました。

# by bfath602 | 2009-10-29 07:15

"先生"に相応しいコミュニケーション術

「"先生"に相応しいコミュニケーション術」というテーマで講演して欲しい、と頼まれたことがあります。

まことに大それたテーマです。このテーマは「本物の先生」しか受けて立つことはできないでしょう。

「自分は先生なのだろうか」

小中学校では、どんなにうら若い新任の教諭だって、先生と呼ばれます。政治家も先生と呼ばれますが、時には揶揄する意味で使われます。「先生」の定義はいい加減なものなのです。

ひとしきり考えてみましたが、結論としては、そんなことは自分で決めればいいし、自分で決めるしかない、ということだと思いいたりました。所詮、先生は厚かましくなければできないわけです。だから、私はホイホイとその依頼を引受けました。このいい加減さが、先生の先生たるゆえんなのです。

もしあなたが講演を聴く立場なら、先生とはその程度のものなのだ、とたかをくくるのはバランスの取れた大人の考え方です。先生もピンキリですが、平均的な先生はある程度の努力でなれるものです。あくまでポイントを教えてくれる「教師」として利用すべき存在が「先生」というものだからです。

さて、コミュニケーション術のほうですが、コミュニケーションの答えは一つではありません。もちろん、その局面で絶対やってはならない、という間違った答えはあります。しかし、正解は何通りかあります。そのうえ、感じ方は人それぞれなのです。

一例として、「タメ口」というのがあります。タメ口で講演したり講義したりする人をたまに散見します。

「そりゃないよね~」
「そうじゃないよね~」

などと聴衆に語りかけるわけです。私自身はタメ口は苦手です。しかし、一概に悪いとはいえません。学生や若者相手なら、タメ口はむしろ相応しいケースもあることでしょう。先生に相応しいかどうかは、結構主観的なものと言ってよさそうです。

# by bfath602 | 2009-10-27 07:47

凡人からインスピレーションが捻出されるわけ

私はこれまでに3冊本を書いています。私の引出しなどたかがしれていますし、自分でもこの乏しいリソースでよく書いたものだと思います。その実情は人前で話をすることによって、単なるアイデアが確信に変わり、その確信を文章にまとめたに過ぎない、ということなのです。

他人の本を単に多読しただけでは、本は書けないと思います。そこにオリジナルな着想がないからです。

ただし、本で読んだ内容でも、人前で話すために整理し、まとめなおすと、そこに必ずオリジナルな発想が混じります。これを実際にしゃべることで、インスピレーションに変わります。

ポイントは準備して人前で話をすることです。この作業によって凡人からインスピレーションが捻出されるわけです。

コーチングでオートクラインという言葉があります。自分で話して自分で気付くという意味合いで用いられます。本来の意味は、細胞から分泌されたホルモンが、ほかならぬ分泌した細胞そのものに作用する(自己分泌)ことを意味する医学用語です。それをコーチングを転用したというわけです。このオートクラインこそ、人前で話をすることによって凡人からでも何とかインスピレーションが捻り出せる秘訣です。

世間には大量の著作をものにされている「先生」がいらっしゃるのですが、そのインスピレーションの多くは人前でしゃべることによって形になったものが多いと考えます。アウトプットが即最高のインプットであるのが「先生」と呼ばれる人々の実態なのです。もちろんこれ以外のインスピレーションもあることでしょうが、人前で話すことは私たちのインスピレーションを最高に高める一つのアプローチであることは間違いないと思います。

先生に相応しい人でありたいと、もし自分が思っているとすれば、人前で話す依頼はどんな依頼であっても、まず受ける、受けてから考える、というのが先生に相応しい姿勢だと考えます。そうすることがフィールドを広げ、自分からインスピレーションを喚起することにつながるからです。

# by bfath602 | 2009-10-27 06:00

お多福山登山

# by bfath602 | 2009-10-12 09:00

施術院は必要悪

整骨院の先生は若い方で、一度会社勤めはされたそうですが、

「何か人の役に立つようなことがしたい」

ということで、現在の整骨院を始められたそうです。私ははじめは、

「偉いなあ、立派だなぁ」

と思っていたのですが、人づてにこの業界の裏事情も知るところとなりました。

とにかく、施術院は患者に来てもらわなくては話にならないので、本音のところはあまり患者に治ってもらいたくないとのことです。やはり客商売なのです。

それと患者の方も整骨院に頼って自助努力している人が少ない。頼ってしまえば自助努力しようという気がなくなるのも事実です。

私の横で施術を受けていた人がこのように言うのを聞きました。

「自分は運動が嫌いで、若い頃から運動はしたことがない。今だって全く運動していない。それで今は一日置きに通っているが、そう急に治ったら誰も苦労はしない。気長に通おうと思っている」

なんと良いお客であることでしょうか。もちろん、施術師は、

「そうですね」

とニコニコしていました。

つまり、患者と施術院のもたれあい、馴れ合いの構図が見て取れるわけです。しかし、これは施術院だけではないでしょう。どこの病院だって多かれ少なかれそうした側面があり、ネガティブな部分を内包しているのが、実世間というものです。きれい事だけではすまないわけです。

そうは言っても、痛むところを応急的にでも治療して欲しいというニーズは社会にいくらでもあります。その意味では大いに社会に貢献しており、必要であるわけです。

整骨院で受ける事ができるマッサージは保険が効くから料金は500円程度です。柔道整骨術自体はマッサージ・指圧といった体系はないのだそうです。ところが骨折・脱臼・捻挫・打撲・肉離れといったケガに対する後療として、柔道整復術に付随する程度のマッサージ・あん摩を施すことは差し支えないという厚生労働省の見解があります。

だから、多くのところでは、慢性の腰痛・肩こりや日常の疲労、加齢による痛みといったものでも、本来なら保険が効かないものまで、上記の見解を逆手にとって「転んだことにする、捻ったことにする」といった具合に捻挫や打撲と負傷名を偽って保険請求しているのが実態であるようです。ある意味、法に触れる側面もあるわけです。

「制限時速40キロ」と言っても、実際は守られていないことが多いですが、あんな感じでしょうか。

つまり、善意で誠心誠意行われている部分もあれば、コマーシャリズムの弊害が認められる部分もある。そしてある種のいかがわしさもある。これが世間というものです。

そしてカウンセリングやコーチングもこの例に漏れない、と私は思うのです。

# by bfath602 | 2009-10-06 07:08

整骨院はカウンセリングやコーチングに似ている

腰痛を起こして丸2ヶ月整骨院に通っていました。

整骨院もしくは接骨院というのは街中に数多く存在します。歳の五十になるまで、はっきりどういうことをするところか知りませんでした。昔は「ほねつぎ」などど看板に書かれていました。そのせいか、骨折した人、捻挫した人、脱臼した人を治療するところなのだろうか、とぼんやり思っていた次第です。

ある日、「腰痛」で検索すると、「整骨院」にたどり着きました。ネットで調べたことを要約すると以下のような感じです。

・整骨院とは柔道整復術を施術するところである。

・柔道整復術(じゅうどうせいふくじゅつ)とは、柔術に含まれる活法の技術を応用して、骨・関節・筋・腱・靭帯などの原因によって発生する骨折・脱臼・捻挫・挫傷・打撲などの損傷に対し手術をしない「非観血的療法」という独特の手技によって整復や固定を行い人間の持つ自然治癒能力を最大限に発揮させる治療術である。

・柔道整復師は厚生労働省所轄の国家資格で、柔道整復師試験の受検資格は、3年以上、所定の柔道整復師養成施設で、解剖学、生理学、病理学、衛生学その他柔道整復師となるのに必要な知識及び技能を修得したものに与えられる。

・接骨院での施術には、健康保険(療養費)や自賠責保険、労災保険が適用される。

・柔道整復師は、慰安や治療でのあん摩・マッサージ・指圧行為や慰安や治療での鍼・灸行為をする事は出来ない。

・カイロプラテックなどの整体は柔道整復業(接骨,整骨)とは、治療に対する思想、施術内容が全く異なる。整体師は民間資格であり、保険は効かない。

保険が効いて手頃な感じがしたので、訪れてみました。初診は1300円ほどで、以降の施術は1回490円と安価です。施術内容は電気マッサージ20分ほどに引き続きと指圧が20分くらい。だいたいどの患者も似たような施術内容でした。私のような腰痛の人が一番多く、手足の痛みや肩こりがそれに次ぐ感じで、「骨折した人」は私の通った整骨院で見かけることはありませんでした。一言で言えば整骨院とはマッサージと指圧の施術院だと理解しました。

整骨院をうたいながら、マッサージと指圧の施術をしているのは変ですが、その当時は全く疑問に思いませんでした。

施術を受けると確かに症状は楽になり、先生も信頼できそうで、

「これはいいところを見つけた。通い続ければ直るに違いない」

と思ったものです。ところが通っても、治療を受けた直後はいいのですが、腰痛自体の症状は一進一退を繰り返すばかり。日を詰めて通うと、俗に言う「揉み戻し」(揉んだところがかえって痛むこと)が発生し、時には体の負担になる感じです。だんだん、整骨院では直らないな、と思い始めました。この時点で整骨院への精神的な依存は断ち切り、自分で治療法を模索することになりました。

その結果、ネットでとある骨盤矯正体操を見つけ、それを講習会で1回だけ指導してもらうことになりました。ひとりで矯正体操に取り組むといった自助努力によって、長引いた腰痛も完治しました。

以上はよくありそうなエピソードですが、私個人の感想は、

「整骨院は一対一のカウンセリングやコーチングに似ているな」

ということです。

# by bfath602 | 2009-10-06 06:59

腰痛克服実践会

10月4日(日)、兵庫県神戸市垂水勤労者市民センターで開催された腰痛克服実践会の個人指導に参加しました。私はすでに回復の実感をつかんでおり、参加者のなかでも一番軽症だったと思います。

# by bfath602 | 2009-10-04 22:33

8月28日の日経朝刊の新聞広告に登場しました

8月12日に出た拙著ですが、8月28日の日経朝刊の新聞広告にはじめて登場しました。上段の『心を鬼にして叱るより無理にでもほめなさい』がそれです。

# by bfath602 | 2009-08-31 11:29

6月17日の日経朝刊の新聞広告に登場しました

出版後7ヶ月経過した拙著ですが、地道に売れているもようで、6月17日の日経朝刊の新聞広告に登場しました。下段の『人間関係にうんざりしたときに読む本』がそれです。

# by bfath602 | 2009-06-21 06:41

7ヶ月ぶりに登場

出版後7ヶ月経過した拙著ですが、地道に売れているもようで、5月29日の日経朝刊の新聞広告に登場しました。上段の『人間関係にうんざりしたときに読む本』がそれです。

# by bfath602 | 2009-06-01 11:04

苛烈な斎藤秀雄

故人ですが、斎藤秀雄というチェロ奏者で指揮者がおられます。指揮法「斎藤メソッド」を確立し、小澤征爾をはじめとした多くの弟子を育てた教育者として有名です。弟子たちは、恩師の名を冠したサイトウ・キネン・フェスティバルを毎年開催、オーケストラ活動も活発に行っています。

この斎藤氏の教育法は苛烈を極めたものでした。弟子が勉強が十分でないまま、レッスンに行くと不勉強を指摘されて怒鳴られます。灰皿を投げつけられたり、譜面台を蹴飛ばされたりもしたそうです。レッスンが近づくと食事がのどを通らなくなり、体重が激減した門下生もいます。

「尊敬しているけど、とても一緒に泣いたり喜んだりはできない」

というのはある弟子の述懐です。

斎藤秀雄氏ほど多くの弟子を育てた音楽家はいません。不世出の教育者でした。明治の父性を体現した有無を言わせぬ教育でしたが、弟子たちは師匠の過度とも言える情熱から音楽の真髄を習得し、世界に羽ばたいていったわけです。

斎藤氏は戦後の焼け野原で「子供のための音楽教室」を開催しました。それが桐朋学園の前身です。弟子たちも、ついこの間まで、

「欲しがりません、勝つまでは」

と教えられていた世代だから、斉藤氏のやり方についていくことができたのだと考えられるのです。

では現在、メソッドは別にして、斉藤氏の批判・叱責の教え方が通用するでしょうか。弟子が恩師の名を冠したオーケストラをつくるでしょうか。否と言わざるをえません。

このあたり、コミュニケーションのルールが変わったと判断せざるを得ないわけです。

# by bfath602 | 2009-05-30 07:36 | 批判・叱責

専制君主型の指揮者

目を海外に転じましょう。私はオーケストラ音楽が好きで、往年の巨匠指揮者のCDを収集するのが趣味です。音楽家の逸話は割と知っているほうですが、その一つをご紹介します。

二十世紀前半までは、指揮者は専制君主として君臨することが多かったのですが、なかでも高名なのがアルトゥーロ・トスカニーニです。この人の練習は罵詈雑言の嵐であったのは有名な話です。練習の録音も残っていて、その対訳もあるそうですが、罵り言葉は、

「こんちき・・・」

などと翻訳されているとのことです。録音を聴いた人によれば、どれだけ怒っているか誇示すべく、声が醜く震えている、のだそうです。この下品な練習が理由で、トスカニーニ嫌いは今も数多いのです。

ところが、そうした罵詈雑言で作り上げたはずの音楽であるのに、今聴いても最高の評価を下すのに何の躊躇もありません。表現の強烈さの上に神々しさまで感じるわけです。

トスカニーニの弟分はフリッツ・ライナーとジョージ・セルです。両者とも残した録音は例外なく一級品ですが、厳格なオーケストラ・ビルダーで、批判と叱責によって音楽をつくりました。楽員を首にするなど日常茶飯事だったそうです。

ライナーのもとで、音楽家のユニオン(労働組合)ができたのは有名な話です。また、セルも「救いようのないほど」ひたすら厳格だったそうです。

一方楽員の対話のもと、もっと民主的に音楽をつくろうとした指揮者もいました。ジョン・バルビローリとか、ラファエル・クーベリック、ジャン・マルティノンといった人々です。しかし、こういった人々は不思議と当時のアメリカでは成功しませんでした。

つまり、例外はあるにせよ、当時のアメリカでも批判と叱責の訓練法が、承認による対話型訓練法よりむしろ効果的であった、という一面を指し示す実例としてまことに興味深いものがあります。

しかし、現在こういった専制君主型の指揮者はもはや存在しません。事情は日米とも同じであるわけです。

# by bfath602 | 2009-05-29 22:10 | 批判・叱責

つかまないこと

批判・叱責されて、なんとかうまくやり過ごしたとします。しかし、世の中人を傷つけるようなことを平気で言う人は結構多いものです。きついことを言われたら、やはり相当応えることがあります。

ポイントは地球上には自分が乗り越えられない試練はない、ということ。世の中半身不随とか失明といったものすごい試練を乗り越えている人もいるので、叱られたトラウマくらい楽勝だ、と思うことでしょう。どんないやな思いも時の経過とともに色あせていきます。

このためには、いやな思い出をつかまないことが肝心です。

私も承認に目覚める前は、批判されたらやり返すの世界に生きていました。当時はいやな思いを何度となく反芻し、あの時はああいってやればよかった、などと新たな憤りを覚えていたものです。

しかし、繰り返し書いているように、批判・叱責されたときは何を言っても無駄です。もし口で勝って、自分のささやかなプライドを守れたとしても、相手はあなたにいよいよ苛烈な批判・叱責を加えるに違いありません。批判・叱責にはどう反論しようと出口はなかったのです。

傷ついたのは事実です。しかし、傷ついたことはつかまないに限ります。車窓の景色のように認めてもやり過ごすのが一番です。私の場合は、自分の周りに立ち込めた闇を振り払う自分を想像するようにしています。

世の中には楽しいこと、素晴らしいことがたくさんあります。そんなことに比べたら批判・叱責された記憶など、何とも醜く、取るにたらないと思いませんか。電車に酔っ払いがくだを巻いて寝ていたら、それを後生大事にながめている必要はないでしょう。車両を変わって気分を一新すべきなのです。

人間は心を解き放った状態で一晩寝れば癒されます。寝る前には心を解き放つこと。そのためにアルコールの力を借りるのが適当であるなら、軽く一杯やりましょう。

# by bfath602 | 2009-05-23 06:52 | 叱責(実際)

承認と指摘のみで批判は使わない

世間の人は承認という知的枠組みを持たない、承認の心得を持たないと言いました。ではその承認の心得とは何でしょうか。

世間の人はもちろん承認もするが、批判したり、がみがみ小言を言ったり、激高して怒鳴ったり、する存在です。公的な職場でそんなことをしなくても、家に変えれば家族に対して平気でやっています。

たいていの人は職場と家庭では規範が異なり、職場で絶対言わないようなことでも、家族に対しては平気で口にするものです。そして、そうしたことを悪いこととは思っていません。むしろ当然のことだと考えています。これは私も昔そうでしたから、自信をもって言えます。

承認の心得がある、ということは批判に類すること、つまり小言を言ったり叱ったり、を職場でも家庭でも一切しない、ということです。そして批判・叱責を「悪」と認識することです。

R先生を師匠とし、半世紀生きてきて、今は確信に近いものを感じているのですが、人間、あるレベルまで成長すると、もはや人を責めたり咎めたりはなくなるのだと思います。もし、人を責めたり咎めたりするのであれば、その人は人間としてまだ発展途上であって、大したことはないのです。

批判・叱責を完全に排除し、承認と指摘のみに徹するとき、その人を取り巻く人間関係は、徐々に好転を始め、ついには一変してしまうのです。批判・叱責が一切ない、という徳分が周囲を魅了してやまなくなるのです。そうしてどの人にも例外なく承認で接するという人生態度が、その人の周囲にオアシスを形づくるにいたるのです。

愛情ある人、というのはこういう人を言うのだと思います。

批判・叱責については追って詳しく書いてみたいと思います。

# by bfath602 | 2009-05-22 06:21 | 承認(導入)

願望は人に語るな

願望とはまず心の中で想像力を働かしてイメージを描き、それを凝視し続けることによって、達成できるものです。一心不乱に実現したイメージを凝視し続ければ、実現に必要なリソースが徐々に引き寄せられてくるわけです。これは成功哲学の本に共通して書かれていることです。

この点から言うと、自分の願望を人に語るのは注意が必要です。世間の人は決して承認の心得があるとはいえないからです。それどころか、他人の願望を知ってしまうと、それを批判したり、揶揄したりします。

誰しも子供の頃、自分の願望をだれかれとなく周囲に語って、がっかりした思い出があるものです。語った願望はしばしば叱責の時に引き合いに出されて、こてんぱんに批判されてしまうものなのです。

世間の人は、願望がうまく進展している人が腹立たしいものだし、うまく行っていない人をどうかしたらからかう傾向があります。自分の願望を他人に批判されれば、願望を凝視し続ける集中力はがっくり低下します。これは百害あって一利なしなのです。

自分の願望は他人に語らないほうが安全です。もちろん、願望を語ったら間違いなく承認してくれる人とか、建設的なアドバイスをくれたりする人は例外です。しかし、そういう人は極めて数少ないものです。

自分の目標を人前で語って、自分を追い込むべし、と主張される方がよくいます。その説くところは一理ありますが、先々もしかしたら批判されるかもしれないという覚悟は必要だと思います。

他人が自分の家に土足で上がりこむのが不快なら、自分の願望や計画は口外しないに限ります。

# by bfath602 | 2009-05-20 20:57 | 叱責(実際)

批判・叱責の承認

批判・叱責をかわす承認は、謝罪もしくは共感のカテゴリー分けができると思います。

・共感
なるほど
お気持ちはわかります。
そう思われるのも無理はないですね。

・謝罪
申し訳ありません。
すみません。
私の責任です。

ただ相手の主張を共感という形で受け容れるのがいいのか、謝罪という形で受け容れるのがいいのかは、ケースバイケースです。単なる批判に対して、謝罪する必要は全くありません。この場合は共感が適当です。

「私は君の意見には賛成できない」

おっしゃることはわかりますが、○○という考え方はできませんか」

と持っていきます。基本的に、

「お気持ちはわかります」
「そう思われるのも無理もないですね」

という共感で対応するのが一番安全です。

しかし、ことと次第によっては平謝りに謝って事態を切り抜けたほうがいいこともあります。このあたりは状況次第です。

基本としては、相手が単なる批判で来ているなら、

「承認」→「反論」→「承認」→「反論」・・・

で対応可能ですが、相手が叱責で来た場合は、ひたすら、

「申し訳ございません」
「おっしゃる通りです」
「お気持ちはわかります」

と耐えて、

「承認」→「承認」→「承認」→「承認」・・・

でいくしかありません。そうしながら相手が感情の世界から抜け出るのを待つわけです。相手は通常、

「本当にわかってるのか」
「口先だけだろう」
「わかっているとは思えない」

畳み掛けてくるものです。しかし、いつまでも怒り続けるわけにはいきませんから、いずれ、

「ま、そういうことだ。わかったね」

という形で話が打ち切られることになるはずです。

相手が感情の世界を抜け出たなと思ったら、一言釈明するのが可能な場合もあります。しかし、一言釈明しようとした結果、落ち着いてきたのが元の木阿弥でリターンマッチになることもあるので、空気は読む必要があります。

結論として、批判・叱責に対しては、反論を交ぜることができる場合もありますが、基本的に承認でかわすのが鉄則です。腹立たしいこともありますが、ここが我慢のしどころなのです。こちらのダメージを最低限に抑えるのはこの忍耐が必要です。屈辱と取らないで、かねてからの心の準備を行動に移すだけと割切りましょう。

# by bfath602 | 2009-05-20 15:33 | 叱責(実際)

承認の言霊

「ご飯!」

うちの妻が食事の支度ができたことを伝えることばはいささかぶっきらぼうです。その食事を私が単に黙々と食べると雰囲気が悪いでしょう。私は、「いただきます」と言う代わりに、

「わ~、おいしそう」とか

「うまそうだな」

というようにしています。それがいかなる店屋物であってもです。こう言えば、食事の支度に少しは張り合いが出るというものですね。

たとえば店の店員さんがある商品をすすめてくれたときは、私は、

「よさそうですね」

と言うようにしています。こうして承認で受け答えしていると、もっといい提案をすすんでしてくれたりするものです。

何が言いたいかというと、承認には承認欲求を満たす、という働き以外に、肯定的な言葉が持つ言霊があるわけです。

『万葉集』にもすでに言霊という言葉が出てきます。言葉の呪縛性というのは確かにあります。つまり、あることを口にすると、それがしばしば現実となるわけです。良いことであれ、悪いことであれ、また、他人に向かって発した言葉であっても自分自身に向かっての言葉であっても、それが暗示となって対象に何らかの変化をもたらすわけです。

たとえば、誰かに向かって、「あなたは最近顔色が悪い」と言い続けると、言われた人は心当たりがなくても、実際に体調が悪くなってくる。その逆に会う人会う人から、「あなたは最近調子よさそうですね」と言われると、本当に調子よくなってくる、そういうことです。

否定的な批判は、「あなたは最近顔色が悪い」と等価です。肯定的な承認は、「あなたは最近調子よさそうですね」と言うのと同じことなのです。ぜひ前向きの明るい言葉遣いを心がけたいものです。

# by bfath602 | 2009-05-20 07:48 | 承認(実際)

愛情深い人

愛情深い人というのは確かにいます。あなたはこれまで会った人のなかで、どの人が愛情深い人と感じましたか。

私事になりますが、私の場合、こう問われて思い浮かぶのはノルウェー人宣教師だったR先生です。私は二十代後半をこの方にメンターとしてお付き合いいただきました。

当時の私は何とか結婚して家庭を持ちたいと願うものの、失恋ばかりしていました。あんまりうまくいかないので、

「自分はもしかしたら結婚できないのではないか」

と自信を失くしてしまうこともたびたびでした。R先生はその当時の私を引き受けてくださったわけです。話を聴いていただいたあとは、意気消沈していても元気が出てきて、救われた気持ちになったものです。

R先生のどこにその力があったのかというと、やはり承認が上手であったことが挙げられます。自己肯定感を失った時の承認は、誰だって涙が出るほどうれしく、いつまでも覚えているものです。

本当に愛情深い人というのは、調子のいいことばかり言わないものです。R先生は問題点をずばり指摘してくださいましたが、そのフォローの承認がうまく、私は葛藤を抱え込むことなく、素直に学び、自分を変えていくことができました。

さてこうした経験から考えると、結局、愛情は承認であると思います。

私個人は「きつい言葉や体罰を受けて変わった」という経験は一度もありません。残っているのは憎悪の感情だけです。それが「どれだけ私のことを思っての言動だった」としてもです。そしておそらくこの事実は万人にとって真実でしょう。

承認しないと愛情の表現はできないのです。

教え諭すなら必ず承認が必要なのです。ここまではよい、ここがよくない、と言う形で。それを穏やかに言う必要があるのです。

我々は困ったことがあって誰かに相談したいという場合、結局承認してくれそうな人で、的を得たアドバイスをくれそうな人を相談相手に選ぶのです。いかに能力があろうとも、批判が多い人は相談しようと思わないものです。人間力とはとどのつまり承認力なのです。

会って何かしら心なごむ感じがする相手、それが承認の心得のある人です。承認の心得のある人は、会議で話を聴いたりするときに意識的にうなずいたりするものです。人と話をするときは打ち解けた笑顔をするものです。

承認力が体得できているかできていないかで、その人の人生は大きく変わるものと思います。

# by bfath602 | 2009-05-20 06:19 | 承認(導入)

叱責は合わない

憤怒というような感情はこの世で異常なもので、怒った当人の身体によくないわけです。叱責に対して相手が謝罪という承認で応じてくれて、怒りが沈静化したときは、まだしも救われますが、相手が反論して怒りエスカレートしたときは最悪です。怒った本人が自分自身を傷つける結果となります。

叱責されれば、されたほうはもちろん傷つきますが、叱責したほうも当面、渋面を維持せざるを得ません。5分後にけろり、というわけにはいかないのです。対立心を維持して緊張感を保ったままの状態を強いられるわけです。いつまで?通常一晩寝るまでです。

怒りが尾を引かず、からっとした人と、怒りが結構尾を引いて陰湿な人がいますが、後者はかなり損な性分です。

結局、叱責は相手も自分も両方とも少なからぬ負担が発生します。叱責は合いません。

# by bfath602 | 2009-05-19 14:01 | 批判・叱責

家族はフヘホで聞き役に回ろう

あいづちは不思議なことに「は行」の音になります。

「はぁ」
「ひぇー」
「ふーん」
「へー」
「ほぉ」

は音はフォーマルで業務用、以外はインフォーマルで家庭用です。

女性は男性と比較して感情が発達しています。感情が発達していれば、男性以上に傾聴や言葉による承認が必要になります。女性の話が長いのはそれが理由です。女性は自分の話が聞いてもらえて、はじめて感情的に満たされるのです。

このあたりをきっちり理解していないと、夫婦の会話で齟齬が起きるものです。奥さんの方は聴いて欲しいだけなのですが、夫が意見してしまうわけです。それが口論の元となって、エスカレートするわけです。

のぞましいバランスは奥さんが延々話をして、夫はあいづちをうつ、というものです。その場合、ふへほの長音は使えます。

「ふーん」
「へぇー」
「ほぉほぉ」

と受けていれば、話好きな奥さんが延々しゃべってもOKです。たまに「ひ音」も割り込ませます。

「ひぇー、すごいね、それで?」

こう持っていけば話をしているほうも調子が出るものです。

ところで、このあいづちの打ち方は子供にも使えます。こどもはまだ理性が発達していないので、感情が相対的に豊かです。そのため女性に準じるわけです。

決してやってはいけないのは、話しかけられたときにうるさそうにしたり、忙しいと文句を言ったりすることです。そのうち家族がおとうさんを避けるようになるのは必定です。私の場合は、取り込んでいてもできるだけ付き合ってあげて、

「ふーん」
「へぇー」
「ほぉほぉ」

で対応し、最後は、

「そおかぁ」

で打ち切ることにしています。いつでも決まって「そおかぁ」で打ち切るので、こういうと条件反射で家族が話をストップするのです。うちの娘たちは今が思春期でむつかしいとされますが、「ふへほ」対応のお陰で、よく話してくれます。

# by bfath602 | 2009-05-19 13:44 | 承認(実際)

変わることを迫られたら

叱責されたとき、世間一般の人は、相手が自分を変えようと迫ってきていると取って、無意識に防御しようとします。だから反論という挙に出ます。そして対立をエスカレートさせてしまうのです。

これはよほど注意が必要です。相手は感情の世界にいますので、反論はまずうまくいきませんし、うまくいったところで、相手の感情はいよいよこじれます。その結果は高いものにつきます。これは例外がないと思います。

批判・叱責されたときのポイントは、自分自身を本心から変えようと思わないことです。抵抗なく本心から変えられるなら、それは何の問題もありません。しかし、前述したように、あなたも感情面では、

「変わらないぞ、変わるもんか」

という気持ちに火がついてしまっています。これはどうしようもありません。

そこで気持ちと言葉をすっぱり分けることをオススメします。批判・叱責に反応して、自分自身を変えよう、とか変わらなければ、という強迫観念を持つのはやめましょう。

「変わらないぞ、変わるもんか」

は大いに結構。あなたは変わる必要はありません。あなたは自分自身の選択においてのみ変わればいいですし、変わる変わらないを人からとやかく言われる筋合いはないのです。

とにかくその場をやり過ごすこと、それに集中するのが正解です。クレーム処理係みたいなもの、と言えばいいでしょうか。

こうなるとあなたは冷静になれるでしょう?

その場を収めつつ、自分も変わる、そんなことは通常できっこありません。自分が本当に変わるべきかどうかは後からゆっくり考えたらいいのです。

私は他人が自分を変えようと迫ってきた時に、心の中だけは「ノー」という権利を有すると信じます。しかし、外面的には「ノー」と言わず、言い方を工夫すればいいのです。

その言い方とは、相手の感情を肯定する承認です。

# by bfath602 | 2009-05-19 05:01 | 叱責(実際)

コミュニケーションのルールは変わった

人類はつい近代まで暴力をもって他人を支配するのが当たり前でした。相手が言うことをきかなければ、殺戮に及んだ恐ろしい時代が続いたわけです。内乱、民族同士の戦争、国家間の戦争は当たり前でしたし、現在も一部では続いています。

そんな人類も今はずいぶん進歩し、先の大戦以降は先進国では平和を実現し、豊かな社会が到来したわけです。

そうしたなかにあって、人間同士のコミュニケーションは徐々に形を変えつつあります。

戦争の時代は、当然ながら批判・叱責という圧力を加えて、人を動かそうとするのが一般的でした。この時代に求められたのは、批判・叱責に対して、抵抗力があって強いことです。少々のことに傷ついていたのでは、とても生き残っていけませんでした。

したがって、当時はわが子を批判・叱責に強い人物に育てるのが愛情であったわけです。「心を鬼にして叱る」とはそういうことを言うのです。

一方平和な現代は、承認で人を動かす方法に変わりつつあります。批判・叱責ではその恐怖感・威圧感でどうしても一方通行のコミュニケーションとなり、衆知が集められません。どうしても組織の効率が低くなります。その結果、そうした組織は淘汰されていくからです。

現代は承認に理解ある人材を育てるのが第一です。現代でも批判・叱責に強いのは、良いことです。しかし、批判・叱責に強くても、承認に理解がなく、過去同様に批判・叱責に訴えるならば、周囲に大変なストレスを撒き散らす結果となります。

平和で豊かな時代になったお陰で、コミュニケーションのルールは変わった

これが事実です。しかし、この事実を自覚しない人は数多いのです。昔の名残で、現代人の多くが批判・叱責といったやり方を引きずっています。人間はもともと感情の動物ですので、批判・叱責に訴えるのは何の訓練も要りません。地のままでいいのです。

しかし、人間がより人間らしく生きるためには、承認を理解し、これを体得する必要があるわけです。

# by bfath602 | 2009-05-18 16:12 | 批判・叱責

自己肯定感の欠乏度

たとえば、羨望や嫉妬と言ったものは組織的・社会的な承認を得られないときに沸き起こる感情です。

同僚が合格したが、自分は不合格、同僚は昇進したが、自分は据え置き。こうした場合は羨望や嫉妬と無縁であることはできません。

こうした場合、別の分野で確たる自己肯定感があるなら、まだしも相手を祝福したりする余裕もあるものですが、そうでもなければ、祝福することなどおぼつきません。

そうした場合、どうでもいいような面子にこだわって、ダダをこねたりするようなことも頻繁に起きます。そうしたものも、承認欲求が別の形で現れたものです。

たとえば、「掟やぶり」っぽい行為というのがあります。あなたは上司である自分を飛び越して、他部署の上司が自分に断りなく自分の部下に意見を聞いたり、他部署の部下が自分に断りなく自部署の部下と相談したり、は不快ですか。

決して他部署の人があなたの部署の人に指示命令したのではないのです。最大公約数の感想としては、業務遂行上容認するが、そう面白いことではないでしょう。

こうしたことを不快がるのか、そうでないかで、上司としての大きさや、自己肯定感の欠乏度は見て取れるものです。「上司としての大きさ」とは何か。それは、他の分野であなたが自己肯定感を確立しているので、そうした些事で動揺したりしない、ということです。

何にしても、人間、大半の言動の動機は承認欲求です。そのポイントが理解できると、相手の自己肯定感の欠乏度は実に良く見えるようになります。そして、自己肯定感の欠乏した人には、時宜に応じて適切な承認の言葉をかけるたり、心配りをしたりができるようになります。

たとえば、試験に失敗したとか、昇進見送りとなった人には、

「試験、残念だったね。○○君が不合格とは思わなかった」
「○○君もいいところあるんだから、気を落とさずがんばってください」

失意の人が上司からこんな言葉をかけてもらったら、きっと元気も出ることでしょう。そういう心の機微がわかる上司は人望厚く、慕われるのは間違いありません。

前にも書きましたが、人間は自己肯定感が欠乏しているときにかけてもらえる承認は涙がでるほどうれしく、いつまでも覚えているものなのです。

ともあれ、承認を扱うには、批判された経験、承認されなかった経験は貴重です。そうした経験を何度も経てきて、ストレスや挫折に対する正しい心の持ち方がはじめて習得できるものです。

そうして承認の値打ちがよく理解でき、他人に温かい承認の言葉をかけてあげることができるようになるのだと思います。

# by bfath602 | 2009-05-18 12:18 | 承認(理論)

< 前のページ 次のページ >