承認は流れに乗って船を漕ぐようなもの

人間は宇宙の力の承認によって動いていると言えるでしょう。宇宙の力から承認を受けると(自己承認)、人は肯定感とそれによってもたらされる安心感・幸福感によって宇宙の力につながるわけです。宇宙の力は創造・活力といったエネルギーで、承認(肯定感)はこうしたエネルギーを仲介します。世の中で成功者と呼ばれる人は、例外なく自己肯定感によって宇宙エネルギーにつながった人です。だから偉大な仕事を成し遂げたし、幾多の困難を乗り越えて成功できたわけです。

これと反対に、宇宙から承認されない(肯定感を感じない)場合、宇宙の力につながることができません。こうなると生きていても、宇宙から愛でられ、祝福されている感じがないので、安心感・幸福感はありません。その状態を続けるのであれば、人間終わりを全うできず、不幸な最期を迎えるのは必定でしょう。だから自己肯定感のない人は、偉大な仕事を成し遂げることもなければ、他人から肯定され、評価されることもないわけです。

多くの書籍に書かれている通り、この世の中では成功の本質は自己肯定感(自己承認)によって宇宙の創造の力を我が物としてすることです。このことに成功すれば成功者となり、宇宙から祝福されます。このことに失敗すれば、敗残者・頽廃者となるわけです。

ある意味、この世界には宇宙の力とその肯定感(自己承認)のみが積極的な力だと言っていいくらいです。こうした理解から対人関係を見ると、他人を肯定する、承認という行為は極めて理にかなってた行為だと言えるのではないでしょうか。

承認によって他人を動かすのは、流れに乗って船を漕ぐようなものです。だから「乗せる」なのです。エネルギー効率がいいのです。

批判や叱責によって他人を動かすのは流れに逆らって舟を漕ぐようなものです。だから「乗らない」のです。エネルギー効率は全然良くない。批判や叱責は承認のアンチ・テーゼに過ぎず、創造や活力といった積極的な力を持ち合わせていないのです。

# by bfath602 | 2010-02-09 07:24

愛情を感じさせる叱り方は

ガミガミ叱責することがほとんどなかったCさんですが、何度か声を荒げて手厳しく叱られた経験があります。今でも覚えているのは、

「これが君の実力なのか。そうじゃないだろう。こんなものではないはずだ
君らしくないいい加減な仕事のやり方だな。おれは大いに不満だ」

という言葉です。こう言われると、的外れの指摘でもない限り、全く反発する心は起きません。なぜかと言うと、この下線のセリフは叱責であると同時に承認であるからです。むしろ、

「期待をかけてもらっているのに、申し訳ない」

という思いを強く持ちました。愛情を感じさせる叱り方はこうした形で、背後に承認が感じられるのものです。ここにも愛情あるところに承認あり、という原則がうかがえます。

Cさんが立腹している様子だったので、私はいったん引き下がり、数時間ほとぼりの冷めるのを待ちました。それから改めてCさんの元に出向き、善後策の相談に乗ってもらいました。

ただ私に言わせると、こうした言葉は声を荒げる必要はとくにないと思っています。穏やかに言われても、目が真剣なら、十分同じ効果があるでしょう。その場合、いったん引下って場を変える必要はなく、その場でそのまま、善後策の相談ができたことと思います。

# by bfath602 | 2010-02-08 06:50

承認は必ずしも愛ではないが、愛は必ず承認である

私は若い頃信徒として教会に通った経験があります。説教は何百となく聴きました。その経験を私なりに咀嚼すれば、対人関係においては、

キリスト教的愛=承認

である、と結論づられると考えています。愛の行為には必ず承認の裏づけがあって、承認を感じるものです。ご存知のように、とくに新約聖書を貫くテーマは愛であり、愛に関しての言葉は何度も何度も繰り返し出てきます。

「父と母を敬いなさい。 あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(マタイによる福音書19章19節)  

「次にはこれです。 “あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。” この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコによる福音12章31節)

「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。」(コリント人への第一の手紙13章2節)

たとえば、マザー・テレサみたいな人が留保なくただ口汚く叱るだけ、は絶対ありえないはずです。ガミガミ叱責したりするような人物は愛が足りない、人間としてできていないと考えざるを得ません。

「承認の裏づけのない単なる批判や叱責が愛であることもある」

世間の多くの人はこのように考えます。私はこの見解には同意しません。愛は必ず笑顔、関心、温かい言葉といった承認を伴うものなのです。ただし、単なるおべんちゃらは愛ではないのは当然です。承認必ずしも愛ではありません。しかし、愛はかならず承認という表現形態を取るのです。これには例外はありません。言い方を変えると、愛は承認の部分集合であるわけです。
承認は必ずしも愛ではないが、愛は必ず承認である

こう言い切って問題ないでしょう。対人関係においては、承認は愛を包含する概念で、愛は承認の中にこそ存在するのです。それが愛の行為であるかは、承認の有無で容易に判定可能なのです。だから聖書の「愛」はすべて「承認」に読み替えることができます。たとえば、

「父と母を敬いなさい。 あなたの隣人をあなた自身のように承認しなさい」  

「次にはこれです。 “あなたの隣人をあなた自身のように承認せよ。” この二つより大事な命令は、ほかにありません」

「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、承認がないなら、何の値打ちもありません」

こう読み替えても全く違和感がないどころか、かえって聖句の意図するところがより具体的になります。不和に満ちた人間関係の根本的な原因は、愛を承認と理解せず、批判や叱責に訴えるところに存在するわけです。

# by bfath602 | 2010-02-07 07:51

承認はすべての良きものを包含する

前述したように、承認は与えれば早晩返って来るものです。また親和の法則により、承認は承認を呼びます。つまり、人徳といったものさえ、承認という行為が包含するものなのです。

たとえば、承認する人に必ず人徳が備わっているわけではありませんが、人徳のある人とは必ず承認が巧みな人です。人徳は運気をもたらし、その人物を長期的な幸福や繁栄に導くものです。
こうしてみれば、対人関係においては、承認は愛、人徳、運気、幸福、繁栄といったすべての良きものを包含することがお分かりいただけるでしょう。承認こそ自分の運命を作り出すカギであるわけです。しかし、寡聞にして承認と言う行為にこうした位置づけを与えた話は聞いたことがありません。むしろ承認はお世辞・おべんちゃらとして軽く見られてきたし、良くて対人関係の潤滑油、方便としての位置づけしか与えられて来ませんでした。

承認はもっと前向きに積極的に実践するものなのです。「情けは人のためならず」といいますが、これは承認にも当てはまります。承認は他人に与える利他の行為ですが、同時に自分を幸せにし、開運をうながす利己の行為なのです。

# by bfath602 | 2010-02-07 07:02

笑顔が内的コントロールに訴えかける

 平和・円満といった世界は笑顔に象徴されます。誰でもよい結果が出て満足すれば、笑顔をします。親和の法則で言うと、逆に笑顔・笑みといったものが、平和・円満・満足・繁栄といったものを引き寄せるのです。笑顔・笑みは内的コントロールの波長でもあります。

 人間時にはまなじり決して、深刻に真剣に物事に取り組まなくてはならないこともあります。しかし、それだけではダメなのです。笑顔・笑みという基本がなければ、物事はうまくいきません。

 人使いの基本は笑顔・笑みであると理解できます。笑顔・笑みは内的コントロールに働きかけるのです。職場でちょっとした罪のない冗談や駄洒落を言うのがうまい上司がいるものです。その人は、このポイントを意識的にせよ、無意識的にせよ、心得ていると言えます。そんな上司は例外なく人望が厚いものです。

 仕事は基本的には辛くて無味乾燥なものです。しかし、上司がちょっとした冗談を言って、職場全体に笑顔があふれるとき、その冗談はメンバーのやる気をたくみに引き出していると言えるのです。そうなればこれは単なる冗談ではなく、大いなる仕事といっていいでしょう。

 経験のあるビジネスマンほど、笑顔の効果を心得ているものです。顧客との人間関係、職場の人間関係も笑顔・笑み・哄笑によってつくられます。商談や交渉ごとも、こうした笑顔があれば何倍も円滑に進みます。

# by bfath602 | 2010-01-19 06:46

リーダーシップとマネジメントの違い

トップ・マネジメントは経営陣、マネージャーは管理職の意味です。これらの人々は職場のリーダーです。それで世間一般では、マネジメントとリーダーシップを似たようなものと考えてしまいがちです。しかし、この二つの言葉は本来正反対の概念なのです。

簡単に言うと、マネジメントは「管理してやらせる」ことです。これに対してリーダーシップとは「乗せる」ことです。もちろん「乗せ」て、積極的・自発的な心構えを誘導するためには、ビジョンという全体像を提示できなければなりません。経営トップは組織全体のビジョンを、中間管理職はその職場のビジョンを提示する必要があります。

しかし、ビジョンを提示して、管理しているだけでは、それほど「乗ら」ないでしょう?そこで「承認」というコミュニケーション力の出番となるわけです。リーダーは承認力を駆使して、他のメンバーを乗せていく必要があるわけです。まじめで実直なだけでは、不十分です。まして、批判したり、叱責したりで、恐怖感や権力に訴えるのは全然見当違いあるわけです。

だから、リーダーはぜひとも承認力を磨かなくてはならないわけです。

リーダーシップ = ビジョン + 承認力

この等式をよく頭に叩き込んでください。

# by bfath602 | 2010-01-18 06:06

サービス精神と加点主義

他人を承認するにはどうすればいいでしょうか。

「自分がして欲しいように他人にしなさい」
「己の欲せざるところ、他人に施すことなかれ」

こうした概念は黄金律と呼ばれます。承認の考え方の根底はここにあります。

あなたは挨拶して無視されたいですか、それとも挨拶を返して欲しいですか。
あなたは他人にギロリとにらみつけられたいですが、それとも笑顔を返して欲しいですか。
あなたは他人と意見が異なった場合、批判されたいですか、それとも冷静に討論したいですか。

答えは自明です。つまり、自分がされたいように他人にし、されたくないことを他人にしなければ、承認は成立します。黄金律に従えば、承認という愛情表現は自然に実現できるのです。

「他人を愛しなさい」

これは聖書の言葉です。しかし、「人類愛」から出発して他人を承認するのは、厳密にはマザー・テレサのように自分を厳しく律する人でない無理ではないでしょうか。少なくとも私自身は、そんな高い境地にいません。たとえ高い境地にいなくても、黄金律なら誰でも実行可能です。承認の基本はこれだけなのです。

しかし、もう一歩実際的な技術に踏み込めば、二つの概念がポイントだと言えます。それが、加点主義とサービス精神なのです。

# by bfath602 | 2010-01-16 10:32

加点主義

あなたは人と接するとき、その人の承認ネタを探しますか、それとも批判ネタを探しますか。

「どちらでもないよ」

とあなたは言われるかもしれません。ではあなたの相手に対する視線は温かいですか、冷たいですか。

私の年齢は五十歳、半世紀生きてきました。若い頃は、人はこうあるべきだ、という基準を無意識に設け、それをクリアしていない場合は、何かしら心理的な壁をつくっていたと思います。今はどの人も一生懸命生きているんだ、同じ人間じゃないか、と思います。だから若い頃より今のほうが他人に対する視線は温かいと思います。

人間小さいときは大人に人見知りをします。しかし子供どうしでは人見知りはありません。子供は自分を基準にして、相手が自分と異なれば、排他性がある、ということです。若い頃の私は、この人見知りをある意味大人になっても引きずっていたのだと思います。人を相対的な優劣で裁いていた、と言ったらいいでしょうか。しかし、いろいろ経験を積むにしたがって、自分を基準に減点でモノを見るという考え方がなくなっていったわけです。

若い頃は自分を基準に優劣で人を見ており、どうしても温かさが不足していました。今もこの要素はないわけではありません。しかし、優越感と嫉妬の価値観はずいぶん後退し、その人なりの個性の輝きに目が行くようになりました。

人を相対的な優劣で裁けば、人間必ず減点主義にならざるを得ません。つまり、他人の欠点が目に付くようになるのです。他人の欠点に焦点を当てた状態で、他人に接すれば、承認は難しいでしょう。どうしても批判しがちになります。そして視線は冷たいわけです。

しかし、人をゼロを基点に絶対的なありようで見れば、どの人も個性があって面白いし、素晴らしいと思えます。この場合、他人の長所に焦点を当てて他人と接することになるわけです。そうすると自然に承認ができるようになります。そうして視線は温かくなります。

よく、コップ半分の水のたとえが使われます。「半分もある」と思うのか、「半分しかない」と思うのか。加点主義とはもちろん「半分もある」という考え方です。加点主義と減点主義では同じ現象を見ても全く見え方が異なるし、同じ現象を見ていても住む世界が異なると言えるのです。

たとえば日本では生活を苦に自殺したりする人が後を絶ちませんが、世界の貧しい国から見れば、日本での生活はうらやましい限りでしょう。五体満足は健常者にすれば、何でもない当然のことですが、障害者からすれば、健常者はその値打ちを全くわかっていないばち当たり、と感じるに違いありません。

経験的に言えば、何事につけても、ゼロを基点にした絶対的なありようで見る加点主義のほうが人生幸福になります。加点主義の住人は減点主義の住人とは全くの別世界に住むものだからです。努めて加点主義を心がけたほうが人生トクなのです。

そして、その副産物は、ごく自然に出る他人への微笑みや、承認の言葉です。加点主義の世界とは承認に満ち溢れた温かい世界なのです。

# by bfath602 | 2010-01-16 07:39

サービス精神

今ひとつの承認のポイントは「ひとこと多い」ことです。

一言多いとは通常否定的な意味で使われます。しかし、その一言が承認の言葉であったなら、何の問題もないはずです。

承認は言葉少なく、慎ましやかに黙っていてはできません。悪乗りしてでも、一言おおく、という意識的な努力が大切なのです。私は悩んで困り果てていたときに、一言声をかけてもらって生き返った思いをしたことが何度となくあります。もしかしたら、あなたのその一言が、他人を生き返らせるかもしれません。

この意味で承認するには、少々おせっかいなぐらいがちょうどいいのです。

また、どうせ承認するなら、ちょっとぐらいオマケをつけましょう。それほどでなくても、

「助かりました」
「うれしかったです」
「おっしゃる通りですね」

と少々大げさに承認するわけです。自分がどれだけ意気に感じたか強調すれば、相手も意気に感じるはずです。このちょっとした行き過ぎがポイントです。

つまりサービス精神とは「一言多く、やや大げさ」であることなのです。

# by bfath602 | 2010-01-16 05:50

講演を聴くマナー

他人と会話をしてしばしば感じるのですが、あいづちやうなづきは個人差がある、ということです。

世間にはわずらわしく感じるほど、大げさにあいづちをうったり、うなづいたりする人がいるものです。その反対に、あいづちやうなづきが極端に少ない人もいます。慣れるまでは、気分を害しているのか、嫌われているのか、と感じるほどです。

正直どちらのまねをすることはないと思います。その人らしく自然であるのが一番でしょう。とはいうものの、日本人の平均値は、あいづち・うなづきが少なめだと感じています。洋画をみれば、欧米人はスマイルをふくめた承認の動作が実に表情豊かです。これに対し、日本人は比較すれば反応が平板です。

私は人前で話をすることがしばしばありますが、いつも感じるのは、もうすこし聴衆がうなづいて聴いてくれたら話しやすいだろうな、ということです。日本人の平均値として、1:Nのあいづちは特に苦手のようです。まれにうなづいて聴いてくれる人がいるものですが、うれしいものです。

「あ~、この人は承認の心がけがあるんだな、できた人だな」

と思います。そういう私ですが、うなづきは苦手です。どうでもいいことにうなづくというのが、できかねるのです。他人に要求しておいて勝手なものですね。

そこで対策ですが、他人の講話を聴くときは、気がついたときに首をタテに振るようにしています。決してほめられたものではないと思いますが、何もしないよりはいいでしょう。そして本当に納得できた時は、サービス精神を発揮、ちょっと意識的にうなづくようにしています。

講演を聴いて、本当に納得できて、話者に自分の気持ちを伝えたいときには、大きくうなづいてあげるのがマナーだと思います。講演を聴くマナーというのは、あまり取り上げられてきませんでしたが、確実にあると思います。

世間にはマナーの良い聴衆とマナーの良くない聴衆が確実に存在します。講演の最後はマナーのよい聴衆は間違いなく拍手してくれますが、同じ話をしても、マナーのよくない聴衆は特に悪気がなくても、拍手をしそびれるわけです。聴衆の中に一人でも乗りの良い、サービス精神の旺盛な人がいれば、そんなことはなかったのでしょうが、運悪くそんな人が一人もいないことがあります。それがマナーの良くない聴衆であるわけです。

承認のコツはサービス精神と「乗り」だと申し上げましたが、反応のよい聴衆はそうしたサービス精神を必ず持ち合わせているものです。たとえ聴衆の質がよくなくても、これを読まれているあなたなら率先して拍手し、承認を実践されることでしょう。

# by bfath602 | 2010-01-16 04:44

家族や趣味の話を交ぜよう

リーダーシップというと、どうしても職場で人を管理することと考えてしまいがちです。しかし、職場で人を管理することは上から目線のマネジメントであって、同一目線のリーダーシップではありません。マネジメントは人を型にはめる一種の外的コントロールです。だからそれだけでは相手の「乗り」は引き出せないわけです。

前述のBさんは仕事の話しかしませんでしたが、これはマネジメントであって、公私の「公」ですから、同一目線のリーダーシップでないことは明らかです。私は、

「Bさんのためにも頑張ろう」

などと思ったことはただの一度もありません。仕事のできる人だ、という敬意は払っていましたが。

これに対し、同一目線のリーダーシップは相手の「乗り」を引き出すものです。相手の「乗り」を引き出すためには、公私の「私」を志向する必要があるのです。Cさんのようにです。同一目線のリーダーシップとは、ざっくばらんで個人的なものなのです。ポイントは相手の個人的なことに触れることです。相手の健康、家族、趣味といったことです。

「風邪はもう治ったの?」
「奥さん元気?」
「今でも釣りはよく行くの?」

こういう言葉はたとえ社交辞令であっても悪い気はしません。しかし、もう一歩踏み込んでこうした内容の会話がひとしきりできれば、相手は必ず「乗り」ます。これも一種の承認です。

前述したように、批判・叱責を多用する上司は嫌われるし、「私」に一切触れない上司は好かれません。こうしたありようはマネジメントであっても、リーダーシップではないのです。部下と私的な話題が多めだが、節度はある。マネジメントとして部下を管理することはするが、必要以上にあれこれ指図しない。きさくでざっくばらん。こうした上司が温情派の上司として、一番好かれるし、部下を「乗せる」ものなのです。経験的に、こうした上司のあり方が一番効率が良くて理想的と私は考えますが、いかがでしょうか。

あなたは職場で部下の個人的なことに積極的に触れていますか?

「仕事なんだから、そんなことは不謹慎なことだ」

なんて思ってませんでしたか?私も昔はそうでした。その考え方は正しくありません。意識的に部下の個人的なことに関心を払うぐらいでちょうどいいのです。ただし、深入りしすぎないように、節度は保ってください。

# by bfath602 | 2010-01-15 06:23

承認は摂理にかなう

物事は摂理に沿えば、楽に進んで行きますが、摂理に逆らってはうまく行きません。承認という行為はこの世の摂理の一つだと考えられます。承認という流れに沿えばうまくいくし、棹差せばうまくいかないわけです。

承認はなぜ摂理なのでしょうか。それは人間の成り立ちをみればわかります。

動物であれば、快不快の本能によって動きます。そしてこの快不快が摂理の指し示すところです。動物は摂理を一切逸脱せず、摂理の命じるままに生きているわけです。

しかし、人間は単なる動物ではありません。摂理に逆らうこともできる、自由意志を持っています。一方で、言葉を使って内なる自分自身と対話する霊性も持っているのです。この内なる自分自身は、人間に宿る造物主の分身とでもいう存在で、造物主とつながっており、その意思を代弁します。哲学者のカントはこの内なる自己の判断を「道徳律」と表現しました。人間は造物主の分身である道徳律と刻々対話しながら、その導きを受け、日々生活する生き物なのです。

この道徳律の指し示すところはつねに首尾一貫し、善悪の価値尺度は万人に共有されています。

たとえば、

・人間一生学び続けるのはよいことですか。
・人間人生に夢や希望を持つべきですか。
・人間自殺するのは正しいことですか。

といった自分自身の生き方に関する命題や、

・他人に親切にするのはよいことですか
・他人の物を盗むのは正しいことですか
・他人を殺すのはよいことですか

といった他人に対する接し方の命題が与えられれば、誰もが瞬時に道徳律と対話して、イエス・ノーの答えを出します。善悪の価値尺度のばらつきのなさは100パーセントと完璧で、道徳律が造物主の分身だと認めないわけにはいきません。昨日はああだったが今日はこう、などということはありません。

道徳律からの答えをまとめると、結局、

①個人としては生きている限り進化し続けなさい。
②他人とは平和に共存し、良き隣人でありなさい。

この二点に集約されるのではないでしょうか。道徳律はえこひいきなく公平に、自分自身と他人の言動を査定し、その言動が道徳律にかなったものであれば承認し、かなわなければ承認しません。このようにして、人類は基本的に道徳律に従いつつ、自己を承認し、他人を承認して社会生活を営んでいるわけです。


この点から言えば、他人の承認とは他人が道徳律に基いて自分を承認してくれることなのです。だから他人の承認であっても、もとは造物主の摂理から出発したものであり、自己承認と本質は同じです。人間は各自が自己を承認しつつ、お互いが承認し合うことが摂理にかなうことであり、自然なことなのです。なぜなら、人類は個人が進化を続けながら、社会で共存共栄するのが、造物主の計画したあるべき姿と考えられるわけです。生きている限り、人間は必ず笑顔や挨拶といった承認はします。それはこうした摂理からして当然のことであるわけです。承認は人間の生の営みの本質と言っても過言ではないでしょう。

そこで承認という行為に焦点を当て、これを意識的に行えば、仕事も人間関係もうまくいく、というのが私の主張なのです。承認は摂理に乗った行為なので、相手を「意気に感じさせる」力を持つわけです。承認は相手の内的コントロールを刺激するため、相手は「意気に感じて」自発的に動いてくれるわけです。

批判や叱責は道徳律に棹差す、摂理にかなわない不自然な行為であると言えます。だから、人間関係を悪くし、摩擦や軋轢や葛藤を招きます。その結果、相手を意気阻喪させ、反発させるわけです。

# by bfath602 | 2010-01-14 22:59

自己承認の決め手

内的コントロールに働きかけるのは結局、承認というプラスの波動だと述べてきました。

 自分自身が承認できないときは、自分自身がなんらかの形で、道を踏み外している、ということです。つまり、宇宙の摂理にかなっていないので、改めなさいという真我からの要求です。この要求が上がっている時は、ある意味危険な状態で、他人のことに関わっている余裕はないわけです。

 したがって、積極的に他人に関われる人は、まず自分自身がしっかり承認できていなくてはなりません。他人を勇気づけるような承認は、自分に有り余る自己承認を他人に分かち与えることなのです。この意味で、有能なリーダーとは必ず自分自身が承認できている人です。例外はありません。

 自分自身が承認できるとは、必ずしも自信があるということではありません。もちろん、○○を達成した、あるいはしてきたという実績があれば、それが自信につながり、自己承認できるでしょう。しかし、自分に自信がなくても自己承認できます。

 そのときは自分の「生きざま」を自分で承認できればいいのです。たとえ、自分に自信があっても、今の生きざまを肯定できなければ、自己承認できているとは言えません。その意味では、生きざまこそ自己承認の本質と言えるのです。

 逆に言うと、自分に実力がなく、自信がなくても、自己承認できます。その状態は「開きなおる」と表現すれば最も適切でしょうか。実力はないが、ないなりに全力は尽くした。やるだけのことはやった。これ以上何ができるだろう。だから、どんな結果でも甘んじて受ける。そうするよりほかにやりようがないじゃないか、仕方ないじゃないか。・・・これが開き直りであるわけです。人事を尽くして天命を待つ、澄み切った心境であるとも言えます。

 人間、開き直れるときは必ず自己承認できています。開き直りこそ、真我を通して造物主にしっかりとつながっている状態だからです。この開き直りは、あきらめず全力を尽くす「生きざま」から生まれるのです。開き直りは自信と等価なのです。だから、自信がないときは自信を補完するものなのです。

 こうした生きざまとは、具体的に言うと、人生にビジョンや使命を持ち、目標を掲げ、目先の困難と格闘していることです。これを読んでいただいているみなさんはきっとこうしたビジョンや使命を既に見出し、自分自身が承認できる生き方をされているのではないでしょうか。

 もし、自分にそうしたビジョンや目標が欠けていると思われるなら、まず志を立てましょう。何でもいいのです。資格を取るとか、マラソンに挑戦するとか、○○を極める、というごくありふれた志でOKです。そうして志を立てて、その志にチャレンジすることが、自己承認の決め手なのです。そうした生き方をしている時、我々は他人がいとおしく感じられ、承認という波動を自然に出せるものなのです。

# by bfath602 | 2010-01-14 20:29

平和な波長は内的コントロールに働きかける

人を外部から強制する「外的コントロール」と、人の内面に働きかける「内的コントロール」はそれぞれ波長を持っている、と理解するとわかりやすいでしょう。

 外的コントロールは、批判・叱責・脅しといった怒りの波長で、内的コントロールはおだやか、笑顔、感謝、賞賛といった平和の波長です。この波長がその人の持つ雰囲気というものなのです。この世の中は引寄せの法則が支配していて、怒りの波長は同じく怒りを引き寄せるし、平和の波長は平和を引き寄せます。リーダーシップ、マネジメントといった人使いは、詰まるところ、この引寄せの法則の応用なのです。ここをとくと理解するのがポイントです。

 怒りの波長が引寄せるのは良くて「一時的な効率アップ」に過ぎません。その副作用としての弊害は大きく、人間関係が損なわれて、コミュニケーションはなくなり、人は育たないし、部下が指示された以上のことをやることはないでしょう。ところがその逆に平和な波長が引寄せるのは、「持続的かつ自発的な創造性」です。人間関係は円満で、部下はあなたを慕ってくれ、コミュニケーションも十分、その結果、言われなくても自発的に新しいテーマに取り組むことでしょう。

 不完全な部下を怒りで是正するというのは、社会通念として容認されることかもしれませんが、引寄せの法則から見れば、ずいぶん愚かな行為であるわけです。平和な波長で内的コントロールに働きかけるのが、絶対賢明で、理に適っているのです。

 波長という考え方をすれば、必ずしも「ほめる」必要がないというのも、おわかりでしょう。なるほど、「ほめる」のは確かに平和の波長に属することですが、平和の波長に属することは、ほめることだけではないからです。要はいつも穏やかに接することが平和の波長に属すことなのです。

# by bfath602 | 2009-12-31 22:43

打っても響かない人には割り切りも必要

基本的に人間の心は他人と同じように思考することを好みます。なぜならそのほうが一層安全に感じるからです。一般大衆は、教育された結果、他人に賛同して型にはめられることに安心感を見出す傾向があります。しかし、少数の人々は大衆に埋没せず、自分独自の見解を持ち、敢えて社会通念の絆を断ち切ることができるものです。

人間、少数の打てば響く人と、その他おおぜいの打っても響かない人がいます。もちろん打つ人と響く人の相性はあるでしょう。しかし、相性を超えた絶対的なところで、察しがよく機転の利く人、その逆に察しが悪く、機転の利かない人がいるわけです。先天的なもの、後天的なものがあると思われますが、結局、現時点の資質という見方をせざるをえません。資質的なことは、教育すればどうなる、といったものでもないわけです。

前述したように、私たちは決して批判や叱責という外的コントロールを使うべきではありません。しかし、同じ外的コントロールでも「指示」については相手次第です。相手にどうしたいかと問うてみて、もし答えが返って来なかったり、相手に当惑した様子がうかがえるなら、その場合は早めに「指示」を渡したほうがよいことも多いのです。

ただし、いつも指示を渡すと、相手はいよいよ指示待ち人間になり、指示をもらえないと立ちつくすようになります。これを回避するためにも、まず問うてみて、陳腐な答えでも引き出す、そして、予想とおり陳腐な答えであっても、これをベースに答を作り上げる、そうしたプロセスは必要であるわけです。

打っても響かない人は、発想に付加価値をつけることはしませんが、ともに答を作り上げれるというプロセスを踏めば納得は引き出せます。

まとめると、コーチングすることによって、

打てば響く人からは発想と納得の両方
打っても響かない人は納得のみ

引き出せばいいのです。指示して欲しい、打っても響かない人にはこうした割り切りも必要です。

# by bfath602 | 2009-12-31 18:40

叱られることにもいいことはある?

叱責の害については、何十回となく人前で話をさせていただいた経験があります。大半の人は私の主張に同意されるのですが、どうしても納得できない人がまれにおられます。こうした人は決まって、

「叱られることにもいいことはあるんじゃないですか。部下は叱られて育つんだと思います。私もそうでした」

と言われます。こういう場合はお互い価値観が違うのだと思います。私は相手の意見を否定しません。

「ご意見尊重します。しかし、今日は私の意見の紹介と問題提起とさせてください」

と言って切り抜けます。

「叱られることにもいいことはある」のでしょうか。あると思います。部下が叱責という葛藤を無事咀嚼して乗り越えることができたなら、その過程で、精神的にタフになり、きつい上司に対する処世術を身に着けることでしょう。つまりうまく行くと人間的に成長する可能性はあります。こうした人はこの効果に着目しているのでしょう。

ただ同じく部下を鍛えるにしても仕事にチャレンジする過程で鍛えたほうが前向きであるはずです。

叱責のマイナスはたくさんあります。

①部下が叱責という葛藤を乗り越えなければすべてが終わってしまう。その場合、相手の持っている可能性の芽を摘んでしまう危険がある。

②部下は叱責の葛藤で悶々とする結果、仕事の効率が落ちる。

③上司に対しては距離を取り、発言を上司に合わせてつくるようになるため、部下から情報が入って来なくなる。誰だって批判されて嫌な思いはしたくないので、上司から叱責されそうな話題は避ける。

④職場の雰囲気も悪くなるので、他の部下から入ってくる情報も制限される。

⑤上下関係を離れて、人間として慕われるか、ということも絶望的。

ストレスなく自由にコミュニケーションできる、円満な人間関係を放棄するという代償を払わなくてはならないのです。どう考えても叱責は損だと私には思えるのですが、あなたはいかがでしょうか。

# by bfath602 | 2009-12-24 06:16

何があってもいつも穏やか

「人はほめて育てなさい」

いかにも本やセミナーのタイトルにありそうな文句です。その脳天気ぶりに生理的反発を感じませんか。ほめるに値しないことまでほめるなんていかにもわざとらしく作為的で、ついていけません。

「そんなの甘い甘い。たまにはがつんと言ってやらなきゃ」

という主張なら共感できますか。私はNOです。がつんと言われて、ひどく落ち込んだことは何度となくあります。しかし、がつんと言われて、悶々と思い悩んで、何か意味があったかというと、そうは思えません。無駄に精神力を浪費しただけです。

では、これならどうでしょう。

「何が起こっても、いつも穏やかに接しましょう」

社会人として仕事をしていれば、何度かは修羅場と思える局面に出くわすものです。結局、何があってもいつも穏やかな上司、これが一番のホンモノだったな、というのが実感です。おそらく、あなたも同じ意見ではないでしょうか。

私もひとり思い当たる人がいます。この人からほめてもらった経験はほとんどありません。もちろん注意を受けたことは何度もあります。しかし、声を荒げて罵倒された経験は全くありません。何があってもいつも穏やか、そしていつも上機嫌でした。彼は自分のポリシーとして「叱り」を否定していたわけですが、それが「一番のホンモノ」を感じさせたのだと思います。

# by bfath602 | 2009-12-23 09:56

愛のムチはありえない

あなたは「叱る」ことについてどうお考えでしょうか。ここでいう「叱る」とは単に注意することではなく、感情的に声を荒げることを言います。

「人生は楽あり、苦あり。人はほめたり、叱ったりして育てるものだ」

「ほめることと同じくらいに叱ることも大切だ」

大半の人は、こういうふうに考えるのではないかと思います。結局その背景にあるのは、「愛のムチ」という考え方です。叱ることこそ本気さ真剣さの表れだから、愛情は時には「叱り」という形をとるべきだ、というものです。

私は少年時代、「巨人の星」や「アタックNo.1」を観て育ちました。この刷り込みは根強く、社会人になってからもずいぶん長い間、「叱り」は人生に不可欠である、と信じていました。だから、部下を持つようになって、何度か「叱り」を使ったのですが、結果はよくありませんでした。

スポーツの世界では、本番という大舞台で気力・体力の究極の勝負をするわけです。訓練法として叱咤激励はTPOによってはうまくはまると思います。しかし、社会人の職場で叱りは馴染むのでしょうか。そうは思えません。本人がストレスを溜めて、周囲の雰囲気が悪くなるだけではないでしょうか。

叱るというのは家庭でもうまく機能しません。私は人並みに叱られて育ちましたが、叱られた記憶など決して楽しいものではなく、思い出したくもありません。ふとしたきっかけで過去の叱責体験がフラッシュバックすると何ともいやな気持ちになります。私と同い年の知人はかってこんなふうに言われました。

「きつい言葉や体罰を受けて変わった、という経験は一度もありません。残っているのは憎悪の感情だけです。それがどれだけ私のことを思っての言動だったとしてもです。そのくせ、同様のことを部下や子供に当然のこととして行い、結果として憎まれるようになり、なぜ分かってくれない、と憤っている。それは愚かしい行為だと思います。しかし、ついつい叱りに訴えてしまいます」

たいへん共感します。

愛のムチはありえない

これが今の私の結論です。思えば「巨人の星」の刷り込みを乗り越えるのに、我々の世代はほんとに長い年月が必要でした。あなたはどうでしょうか。

# by bfath602 | 2009-12-23 08:41

外的コントロールと内的コントロール

批判するとき、叱責するときは必ず声を荒げます。もちろん気分を害しているという意思表示なのですが、なぜ気分を害しているのでしょうか。それは叱られるほうの言動が叱る人の思いに沿ったものではなかったからです。だから批判・叱責することによって、今後は相手の言動が自分の思いに沿うことを要求しているわけです。一言で言うと、

考え・行いを改めよ

と強制しているわけです。強制によって相手を動かすことは「外的コントロール」と呼ばれます。外的コントロールは例外なく人間関係を悪化させます。人間だれしも、

「自分で納得し、自分で選択したようにやりたい」

と思っています。人の言動は本来、自分の内なる意思によってコントロールされるものなのです。これを「内的コントロール」と言います。人間関係が悪化するのは、内的コントロールが外的コントロールによって阻害されるからです。要約すれば、

人は内的コントロールで動くとき幸福で、外的コントロールで動くとき不幸

であると言えます。これは例外ありません。この事実そのものはごく単純です。しかし、この単純な事実が現代社会でもあまり理解されているとは言えません。

テレビドラマや映画を見てください。権柄づくて部下や目下を怒鳴りつけるシーンは極めて多い。上下関係はなくても登場人物が外的コントロールに訴えて、怒鳴る、吼える、猛り狂うシーンも多いですね。新聞の社会面三面記事はどうでしょうか。パワハラや家庭内暴力(DV)は社会問題です。その結果としてのうつと言った心の病も社会問題ですね。

今でも大多数の人が自分のコントロールできる部下や目下は外的コントロールで変えられるし、変えなければならない、それが愛情だと誤解しているのです。それが「愛のムチ」の正体です。

# by bfath602 | 2009-12-23 06:22

トム・ソーヤのペンキ塗り

ではどうすればいいのでしょうか。簡単です。外的コントロールで動かそうとしないで、内的コントロールで動かそうとすればいいのです。

「トム・ソーヤのペンキ塗り」という話があります。ご存じの方も多いと思いますが、こんな話です。

トム・ソーヤが柵のペンキ塗りを命じられる。
ペンキ塗りは嫌だったのだが、わざと楽しそうに作業する。
すると友達が寄ってきて、「楽しそうだからやらせて」と言う。
トムは友達が持っているおもちゃと交換に、ペンキ塗りを代わってあげる。
トムは嫌なペンキ塗りを逃れただけでなく、おもちゃまで手にして大満足。

見事に他人の内的コントロールに働きかけていますね。外的コントロールがないので、登場人物のなかで不愉快な思いをした人はいません。みんなハッピーで、WIN-WINを実現しています。外的コントロールを使わないで、内的コントロールに働きかけるのが、人間関係やリーダーシップのコツであり、極意です。このトム・ソーヤ的な感覚をよく押さえてください。

世間には外的コントロールを常用して、相手が苦痛やストレスを味わってこそリーダーシップだ、と履き違えている人がおおぜいいます。その証拠に高圧的なものの言い方をして、他人を傷つけるようなことを平気で言う。そんな人々はこのトム・ソーヤ的な境地に遠く及ばないわけです。

# by bfath602 | 2009-12-22 23:55

ポイントと対策

ポイント1: 愛のムチはありえない。

対策:    ガミガミ語気を荒げるのは禁止。いつももの静かに話すこと。

人間穏やかに話せばわかる。穏やかに話してもわからないときは、語気を荒げても同じ。
社会人に体育会系の常識は通用しない。






ポイント2: 誰でも責めたり咎めたりすると、正論であっても反発する

対策:    潤滑油としての承認枕詞を使う。

相手の言い分を否定するときは、その前に必ず感情を肯定すること。
最も基本的なのは「気持ちはわかるけど、・・・」

バリエーションとしては、
「気持ちはわからないでもないけれど、・・・」
「そう思うのも無理はないけれど、・・・」





ボイント3: 誰でも不安を与えると不快になる。

対策:    意識付けに「脅し」を使わないこと。

そんなことでは肩たたきだ、
そんなことでは後輩に抜かされる、
そんなことではヒラのままだ、
・・・といった言い方はやめること。





ポイント4: ほめ過ぎるとわざとらしく効果も少ない。

対策:    ほめる承認はここ一番でつかうこと。
        ふだんは感情を肯定する承認を。




ポイント5: 陰で部下のことを良く言うと、職場の信頼感を下支えする

対策:    本人がいないところでほめよう。





ポイント6: 承認は与えると必ず返って来る。
      
対策:    承認はこちらから与えること。
        承認が承認を呼ぶ職場づくりを心がけよう。




ポイント7: 承認してくれる人は人間関係のオアシスである。

対策:    承認は与えて受け取って回して行こう。
        いつも上機嫌な上司こそ真のリーダーである。




ポイント8: リーダーシップの極意は上下関係を意識させないこと。

対策:    誰に対しても同じ態度で接しよう。
        タメ口は親愛の情の表現で使うこと。
        ぞんざいで使うのは不可。




ポイント9: 家庭で円満な人は職場でも円満。

対策:    職場・家庭の二重規範はやめよう。
        二重規範のない人がホンモノ。





ポイント10: 承認が承認を呼ぶ職場が高業績の秘訣

対策:     上司から承認を仕掛けよう





ポイント11: 自分自身が承認できていないと他者は承認できない

対策:     自分自身と対話して自己承認力を磨こう





ポイント12: リーダーシップとは乗りのプロデュースだ。

対策:     承認・同一目線でインフォーマルな人間関係をつくろう。    

# by bfath602 | 2009-12-22 20:55

感情が傷つけられるとき

私は若い頃に一度、職場で挨拶をしない人を経験したことがあります。入社して2~3年の女子社員でしたが、上司には挨拶しても、私には挨拶しません。しかし、特定の親しい先輩・同僚には挨拶する様子でした。朝事務所にやってくると、いきなりバタンと座って仕事を始めるのです。見るに見かねて、「おはよう」と言って見たことがあります。このときはさすがに返事が返ってきました。しかし、翌朝からはまた同じです。はっきり言って、これだけでむちゃくちゃにストレスはつのるものです。しかし、これが直属の上司ならたいへんです。こんなふうに無視されたら仕事に行きたくなくなるのは必定でしょう。

上司との意見の対立は何度も経験しています。仕事ですから、単なる意見の対立なら、当然ありえるし、受け入れられます。最終的に判断をするのは上司ですから、自分の意見が押し切られても仕方がありません。しかし、意見の対立はしばしば尖った口調の批判、あるいは感情の爆発を伴った叱責に発展することがありました。

「つべこべ言うな」
「お前を他部署に飛ばしてもいいんだぞ」
「だからお前は嫌われるんだ」

私が今までに経験した、究極の叱責はこうした言葉です。全く絶望してしまって、言われたその日はとても仕事が手につきませんでした。仕事をしてるふりをしながら、会社を辞めたらどうなるか、その日は終日思いをめぐらした次第です。翌日出社するのもやっとの思いでした。

生身の人間は必ず感情を持っています。この感情が傷つけられると強烈なストレスを受ける、ということです。感情が傷つけられるのは、無視されたり、批判・叱責されたりしたときです。おそらく、あなたも似たような体験をお持ちのはずです。

なぜ傷つくのでしょうか。

# by bfath602 | 2009-12-22 06:44

承認とはいかなるものか

人間、食欲・性欲といった生理的欲求は強力ですが、負けず劣らず強力なのが、愛情の欲求です。人間が他の動物と違うのは言葉をつかって家庭や職場で社会生活を営んでいるということです。だれでも他人に好かれたい、受け入れられたいと思っています。そうでなければ社会生活が成り立ちません。だから、他人から拒絶されたい、嫌われたい、という人はいません。

ある人の言動は周囲の人の言動による反応という形でフィードバックを受け取ります。そのフィードバックが肯定的であれば、心理学用語では「承認された」と言います。逆に否定的であれば、「承認されなかった」と表現するわけです。

心理学用語の承認は、般的な社会通念としての「承認」とは若干開きがあります。一言で言うと、相手の感情を肯定するすべての言葉や行為が承認です。言葉としての承認は以下のようなものを言います。

<言葉としての承認>
①賞賛
素晴らしいです。
さすがは鈴木君だな。
達筆だね。

②同意
その通りだ。
大賛成だよ。
同感だ。

③お礼や感謝
ありがとう。
あなたのお陰です。
お世話になりました。

④謝罪
申し訳ありません。
それは悪いことをしました。
私の責任です。

⑤期待/信頼の表示
任せられるのはあなたしかいません。
あなたと見込んでお願いしたい。
期待していますよ。

⑥激励
その調子だ。がんばれ。
君ならできる。
君のやっていることは間違っていない。

⑦第三者承認の伝達
部長が君の事をほめてたよ。
君の実力はみんな認めている。
Aさんがよろしくと言っていたよ。

⑧感情の伝達
君が来ないと寂しいな。
お話をうかがって力づけられました。
あなたの一言で雰囲気が一転良くなりました。

⑨共感
お気持ちはわかります。
そう思うのも無理はないですね。
今回は残念でしたね。

⑩存在の認知
おや、髪切ったんですね。
おや、今日のネクタイは青ですね。
あ、鹿児島の方ですか。

⑪行動の認知
この仕事は君がやったんだな。
この表をつくったのはあなたですね。
今日は3社訪問したんだね。

といったところでしょうか。いろいろな整理のしかたが可能だと思います。

一方行為としての承認もあります。こちらは単独に使われることもありますが、多くは言葉と併用されます。視覚・聴覚情報は言語情報よりもむしろ強力なインパクトがあるので、併用されると効果的です。

<行為としての承認>
①笑顔
②挨拶
③あいづち/うなずき
④おうむ返し
⑤アイコンタクト
⑥拍手
⑦握手
⑧傾聴
⑨関心を示す(質問する)
⑩金品を贈る
⑪相手の優越感を刺激する(失敗談を話す、バカを演じる、わざと負けるetc.)

結局、承認とは相手を受け入れる好意の表現です。愛情表現は必ず承認という形を取ります。

承認は承認を呼ぶ

他人を承認すると、承認は必ず返って来ます。承認は承認を呼ぶのです。

「Aさん、今回の仕事ぶりは本当に素晴らしかったです」

とほめられたら、Aさんは、

「ありがとうございます」

とお礼を述べたあと、(感謝も承認です)

「いや、Bさんも大健闘でしたよ」

と相手を承認し返し、お互いをたたえ合うものです。承認という幸福感は与えてもらったら、それを与えてくれた人に返すし、他の人にも分かち与えようとするのです。こうして承認は承認を呼ぶわけです。

つまり、承認はAさんからBさん、BさんからCさんと増殖し波及するものなのです。

「承認」は内的コントロールに働きかける

人間、かねてからやろうと思っていたことを人から指図されるととたんにやる気を失くすものです。

たとえば、学生時代そろそろ勉強にとりかかろうとしていたのに、「勉強しなさい」といわれ、とたんにやる気をなくした、というのは誰でも経験があることと思います。

人間みんな違う個性を持っていて、人に命じられるままのでくの棒ではないわけです。本来は内的コントロールで、動きたいのです。だからたとえ批判・叱責されなくても、他人からとやかく言われて動くことは本来そう楽しいことではないのです。

「承認」は愛情表現ですから、内的コントロールに働きかけます。内的コントロールに働きかけられば、誰でも例外なく相手はハッピーになり、

「それなら一肌脱いでやろう」

とやる気を出します。ですから、相手に指図するときは、まず承認してから言うとうまく行きます。意見が対立した時も、承認を枕詞として前置きすると、うまく説得できます。こんな感じです。

「気持ちはわかるけど、それじゃまずいんじゃないの」
「そう考えるのも無理はないけど、ほかのやり方もあるんじゃないの」

といえば、単に「おまえ、それ違うだろ」

と言うよりは、断然うまく内的コントロールに働きかけるというわけです。

# by bfath602 | 2009-12-21 22:33

「愛のムチ」は本当か

「愛情表現は必ず承認という形を取る」と断言されて、「ん?」と思った人もおられることでしょう。

「愛のムチというのがあるじゃないか。愛情は時には叱責という形を取ることもあるはずだ」

こうした考え方は根強い社会通念であることは重々承知しています。

しかし、「愛情は時には叱責という形を取る」は本当なのでしょうか。私の社会人経験を振り返ってみても、叱責を愛情と感じた経験は皆無です。例外的に愛情を背後に感じた叱責はただのひとつだけありますが、それは、

「君の実力はこんなものではないはずだ。こんな結果では大いに不満だ」

と怒鳴られた時です。振り返ってみれば、「君の実力はこんなものではないはずだ」という承認があったため、叱責を愛情と理解できたわけです。しかし、個人的な感想を言えば、大声を出さず普通に指摘してもらえれば、私は違和感を感じることなく、もっと反省したと思います。大声という演出は失礼ながらわずらわしいだけでした。

それ以外の叱責は叱責以外の何者でもありませんでした。問題の是正というよりは、叱責する人が単に溜飲を下げる(気が済む)のが目的であったと思います。その結果、いずれの場合も私は非生産的なストレスを抱えざるを得ませんでした。つまり、叱られた後の気持ちの整理をつけるため、決まって数時間悶々とするわけです。その間仕事はほとんど進みません。つまり、結果的には上司は叱責することによって私の仕事の妨害をしているわけです。

結局、「叱り」を肯定してしまうと、感情にまかせて言いたいように言っているのが実情なのです。大義名分として、「相手のためを思って」と言っていますが、叱る必要はそもそもないのです。穏やかに指摘するだけで十分目的は達することができるはずなのです。

# by bfath602 | 2009-12-21 20:00

リーダーシップの誤解

世の中にはリーダーシップというタイトルがついた本は何冊ぐらいあるかご存知でしょうか。アマゾンの和書で検索してもざっと3000冊です。汗牛充棟という言葉が相応しいでしょう。MBAのコースなどでもリーダーシップ論は教えられており、必修科目であるようです。私も少しはかじった経験があります。

世間一般の「リーダー」および「リーダーシップ」という言葉の理解は人それぞれでしょう。友だち同士のグループで旅行しても、そこには必ず「リーダー格」という存在がいます。これもリーダーとみなされているわけですね。

ところで、リーダーの動詞のリード(LEAD)は次のような使い方をされます。

①業界をリードする技術力がある。

②ダンスでパートナーをリードする。

①は先行する、率いるといった、どちらかというと「上から目線」であるのに対し、②は「導く」「仕向ける」という同一目線なのにお気づきでしょうか。どちらもリードなのです。世間ではリーダーという言葉を圧倒的に①の意味で使います。政治トップや経営トップに限らず、中間管理職であっても、ある意味どうしても「上から目線」が避けられないのは事実です。しかし、リーダーシップは上から目線で高飛車であればあるほどうまくいきません。上から目線のリーダーシップは下手糞で、下策です。もし仮に相手を上から目線で強制した場合は、相手はイヤイヤ必要最低限のことしかしてくれないでしょう。そのうえ、相手は心にしこりを残しており、関係は気まずいものであるはずです。

リーダーシップを行使する作法としては高圧的な言い方をしないで、「同一目線」であればあるほど、相手はうまく乗ってくれます。つまり、②の意味合いこそ大切なのです。真のリーダーシップとは対等な関係で、相手をその気にさせることなのです。一旦相手をその気にさせてしまえば、相手は今後とも、あなたが何も言わなくても、自発的に、しかも能力以上のことをやってしまうわけです。

真のリーダーシップとは対等な関係

これをよく押さえてください。あなたは相手より何階級も上の上司であるかもしれません。しかし、それを相手に感じさせてはならないのです。相手に上下関係を意識させなければさせないほど、リーダーシップは効果を発揮するのです。

# by bfath602 | 2009-12-21 06:17

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